マニキュア
請求書の処理を終えて、ふとキーボードの上に乗った手に目を落とす。
少しかさついた手に3日前に塗ったマニキュア。
シンプルな桜貝色で、1度塗りでも綺麗に発色してくれる。
シロップをかけたような艶々した指先を眺めていると、くたびれた心も少し潤ってくる。
それがたとえ華美ではなくても、手が美しく見えるだけで気持ちが落ち着くのだ。
この職場では派手な色、ラメは厳禁だ。
就業規則には書かれていないが、そこは暗黙のルール。
「分かるでしょ?」という圧をひしひしと感じる。
一度新人ちゃんがラメの入ったマニキュアをしていたら、昼休憩に女性の上司に呼び出しを食らっていた。
怖い怖い。
だから私の手持ちはどれも淡いピンクばかり。
一時期は休日の前夜に好きな色に塗り替えていた。
けれど入社して数年経つと、そんな余裕もなくなってしまった。
いつの間にか瓶の中でカチコチになってしまったマニキュアを見て、それ以来派手なものは買っていない。
親指の端のマニキュアがはがれているのを見つけた。
あぁ、また塗りなおさなくては。
辞めようと思ってから、それを口にするのは自分でもびっくりするくらい早かった。
デスクの整理、データの共有・削除。
自分の痕跡を一つずつ消していくという作業は寂しくもあり、とても気持ちが良かったことを覚えている。
ばたばたと引継ぎが行われ、あとは有給消化を残すのみ。
最終出勤日にはお世話になったみんなに挨拶へ回った。
その中で、偶に一緒にランチに行く先輩から某有名ブランドの、小さな白い紙袋を渡された。
カメリアの花が型押しされた紙袋を開けると、中にはマニキュアの箱が入っていた。
それは目が覚めるようなとっても鮮やかなフューシャピンクで、私は一瞬にして気に入ってしまった。
こんなにも鮮やかなカラーはいつぶりだろうか。
先輩は「似合うと思うよ」と一言言って、さらりと帰っていった。
あれから数年経って、私のマニキュアコレクションは色鉛筆のセットのように、たくさんの色で溢れている。
ブリックレッド、イエロー、陰のある水色、そしてグリッターの入ったピンク。
その中には勿論あのフューシャピンクも入っている。
緊張しがちな私は、ここぞという勝負時にはお守りのようなフューシャピンクを塗ることにしている。
あの鮮やかなピンクは
「もうこっちの世界に戻ってこないで、あなたはそっちで頑張りなさい。」
とそっと背中を押してくれている気がするのだ。